Masuk――リンゼン帝国 帝都セント・レグナス 城門――
「陛下、お急ぎください」
ヴィルヘルムが先導し、人の目を避けて城門をくぐる皇帝一行。
たたき上げの軍人である彼は見張り兵の交代時間がどのような手順で行われるかは熟知していることであり、その隙を突くなど容易いことです。 彼の手引きでイストリアとその従者十数名は、皇帝の帝都脱出という前代未聞の強硬策の第一段階をどうにか突破しました。「城門を抜けたからと言って気を抜いてはいけません。各地には治安維持部隊を展開していますし、街道を外れれば野盗山賊の類も|跋扈《ばっこ》しています。くれぐれも身分がバレることのないよう細心の注意をお願いします」
いつもの皇帝装束では一見しただけで素性が露呈してしまうので、急遽皇帝付きの下男に準備させた町人の服を着てはいますが、育ちの良さからくる気品はどうしても滲み出てしまいます。ヴィルヘルムは立ち居振る舞いから高貴な身分であることが露見するのではないかと心配しました。しかし、亡命という雰囲気にそぐわない、イストリアの明るい
――リンゼン帝国 帝都セント・レグナス 市民集会所―― 今日は法案が提出されたわけでも、官職選挙が行われる日でもありません。 しかし、市民集会所には選挙の時よりも多くの人々が詰めかけていました。「主食すら満足に買えないとはどういうことだ!」「これだけ食料価格が暴騰してどうやって食っていくんだ!」「政府はいったい何をしている!」「皇帝がいなくなった途端にこれか!」「何の役にも立たない軍隊に兵糧を支給する余裕があるなら市場に回せ!」 人々は生きていくうえで絶対に欠かせない『食料』を満足に確保できない政府に対し、その不満と怒りを爆発させているのです。 皇帝が帝都にいた時期には決して起きなかった緊急事態。 軍がなくても人は動けますが、食料がなくなれば国民の生命そのものが脅かされます。 古今東西、どこの国の最高権力者でも、権力を握る以上はそれを支持する民衆に対して絶対に守るべき責務があります。 一、安全保障。大規模な外敵の侵入を防ぐことは国家にしかできません。 一、治安維持。国外だけでなく、国内でも安心して暮らせる状況を作り上げること。 一、食料の安定供給。これは言うまでもなく市民の生命そのものに直結することです。 この三点は絶対的に死守するべき最高権力者の責務であり、これらを満たした上に富の蓄積や生活水準の向上、利便性などのインフラ設備が整ってくるのです。 ローゼンベルクは現在、その責務とは正反対の極致にいます。外部では法的に正当な地位にいる皇帝という人物を、自らの行いで敵に回し、国内では食料の供給がほぼ停止。その上でデモの頻発という、三大要素を全て壊滅的な状態にしてしまい、それに対する有効な手立てを打てないまま本格的に困窮していくのを待っているしかできない。 帝国の心臓部たる帝都は、わずか数か月の供給制限という包囲網によって息も絶え絶えといった様相を呈していました。 こんな状態では他国に向かって軍を進めるなど、到底不可能。国民の不満は日増しに高まっていきます。 ローゼンベルクは暴徒を恐れ、皇帝廟から一歩も出られ
――リンゼン帝国 帝都セント・レグナス 皇帝廟謁見室――「なんだと!」 偵察の報告を聞き、玉座に座るローゼンベルクは声を荒げました。 彼が皇帝の所在を確認したのは、イストリアとハワード王国の同盟が締結され、帝国全土に皇帝勅令が発布された後だったのです。「よりによって敵国と同盟を結ぶとは! これでは皇帝自ら国を売ったも同然ではないか!」 予想だにしていなかった展開に激高する現在の実質的最高権力者に対し、反論する者も今後の展開を冷静に忠告する者もいません。 抵抗する力もなくし、本拠地を捨てて逃げ出した皇帝など何の力も持たないと思い、帝都に籠って自派の強化と反対派の追放に権力を行使している間に、気が付けば自分たちが帝都内に閉じ込められていたのです。 帝都内で唯一の最高権力者となり、勝利の美酒に酔っている間にイストリアは一本の矢を放つこともなく、一個軍団すら派遣することなく、事実上の宣戦布告をローゼンベルクに突きつけました。 こうして「第二次西方戦役」は、帝国側の誰ひとりとしていつ始まったかを明確に答えることが出来ないうちに始まったのです。 帝国の心臓部である帝都を握っている以上、ハワード王国にいる皇帝の勅令と言えど絶対的な強制力を発揮するわけではありませんが、覇権国家と違い自国の生存戦略を第一と考える中小の王国は大義名分や法の正当性よりも力の論理に従います。 確かに帝国は強大な軍事力を誇ってはいますが、それも周辺の中小王国との協定による派兵に大きく依存しており、帝国が直接統治する地域のみに限ると兵力は大きく削減されます。まして今回皇帝が拠り所としたのは、ほんの数年前に圧倒的な大軍勢を相手にして完璧な勝利を見せつけた、強大なハワード王国です。 すでに多数の国が皇帝の勅令に応じて兵と兵糧の供出を承諾したという報告も入っており、まだ勅令に応じていない王国もローゼンベルク側につくと態度をはっきりさせたわけではなく、様子見といったところ。「どうして……こんなことに」 ローゼンベルクは玉座で天を仰ぎます。「しかし、わしはまだ負けたわけではない&hell
「そこまで全部見透かされているなら、余計な前置きは不要ね」 そこまで言うとイストリアはそれまでの平民然とした態度を改め、姿勢を正しました。その姿は先ほどまでとはうってかわって威厳に満ちており、この人物が確かに皇帝の血筋を引く者だということを再認識させられます。 カイゼル王とアウグストはもう一度頭を垂れました。「第十二代皇帝イストリア・フォン・リンゼンとして申します。ハワード王国カイゼル・ハワードに正式な同盟関係の強化と、国内の反乱勢力に対する助力を要請します」 この一言により、元老院議員の王太子に対する表敬訪問は姿を変え、リンゼン帝国とハワード王国の同盟強化と軍事協力の首脳会談へと変貌しました。会話の主役を変更するだけで、亡命という図式を排除し、皇帝としての職務遂行にステージを上げたのです。 これはローゼンベルクが使う『国家緊急特別対策宣言』という脱法的暫定措置に反して、正式な法的根拠のある措置であり、法律闘争において今度は皇帝側が勝利を得たということなのです。法的にはローゼンベルク率いる帝都そのものが『反逆者』になった瞬間でした。 国王カイゼル・ハワードは頭を下げたまま、恭しく答えます。「皇帝陛下に地位を認められた臣下として、直々の要請は勅令と同義。帝国に忠誠を誓う我が王国は、今後皇帝陛下の剣となり盾となり、その力を存分に発揮すると誓いましょう」 カイゼル王は皇帝イストリアの手を取ると、その手の甲にキスをします。 アウグストはその様子をまんじりともせず眺めていました。 イストリアはその視線に気が付き、顔を向けましたが、彼は何も言わず目を逸らします。「くすっ」 イストリアは微笑み、アウグストの方へと向き直りました。「殿下は忠誠を誓ってはくれないの?」「私ごときの身分で陛下に触れること自体が畏れ多いと存じます」 アウグストは頭を下げたまま、目を合わせようともしません。 その様子を見ていたカイゼルは思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、息子に対して言いました。「王族の一員が陛下の手を取ることの何が畏れ多いものか。お前も
「何事だ、騒がしい」 カイゼル王は息子との重要な会話を中断させられ、少し不機嫌な様子で応じます。「父上、恐らく本当に緊急事態だと思われます」 すかさず口を挟んできた息子の真剣な表情を見て、カイゼルは何かを感じ取り、真剣な表情に戻ります。息子にはもう結果が見えているのだということを察したのです。「報告を聞こう。入れ」 国王の許しを得て、伝令役の見張り兵が逸る気持ちを抑え、ゆっくりと執務室の扉を開きます。 兵士は国王と王子の前に跪き、少し急いだ様子で話し始めました。「報告いたします。ただいま城門に、リンゼン帝国の前法務官ヴィルヘルム・フォン・ハッツフェルト閣下率いる十数名の集団が参られ、アウグスト王太子殿下への表敬訪問を申し出ております」「アウグストに?」 カイゼル王は怪訝な顔をしますが、当のアウグストは眉ひとつ動かしません。「私への表敬訪問ということは既に応接室へとお通ししてあるのですか?」 どこか確信に似たものを感じさせる王太子の質問に、兵士は委縮して平伏してしまいます。 兵士はその質問に対し、少しバツが悪そうに言い淀みました。 「は、それが……。身分を証明するものを持っておられないうえに、その、身なりが平民のそれでありまして」「ということはまだ城門の前で足止めされているのですね」 少しきつめの口調に兵士はすっかり恐縮し、返事も忘れて平伏します。「大至急人をやって、従者ともども全員を応接室にお通ししてください。いいですか、全員ですよ」 通常、身分の高い人物が訪問した場合、側近の数名だけを通して残りの者は控室で待機させるのが普通なので、アウグストが今回出した指示は異例なものでした。兵士は驚いて王子の顔を見ましたが、その毅然とした態度の前では反論することも|憚《はばか》られ、短く返事をするとそのまま執務室から出て行ってしまいました。 兵士の退室を見送ると、代わってカイゼルが息子に質問します。「全員を応接室に通すとは随分異例なことを申すではない
――リンゼン帝国 帝都セント・レグナス 城門――「陛下、お急ぎください」 ヴィルヘルムが先導し、人の目を避けて城門をくぐる皇帝一行。 たたき上げの軍人である彼は見張り兵の交代時間がどのような手順で行われるかは熟知していることであり、その隙を突くなど容易いことです。 彼の手引きでイストリアとその従者十数名は、皇帝の帝都脱出という前代未聞の強硬策の第一段階をどうにか突破しました。「城門を抜けたからと言って気を抜いてはいけません。各地には治安維持部隊を展開していますし、街道を外れれば野盗山賊の類も|跋扈《ばっこ》しています。くれぐれも身分がバレることのないよう細心の注意をお願いします」 いつもの皇帝装束では一見しただけで素性が露呈してしまうので、急遽皇帝付きの下男に準備させた町人の服を着てはいますが、育ちの良さからくる気品はどうしても滲み出てしまいます。ヴィルヘルムは立ち居振る舞いから高貴な身分であることが露見するのではないかと心配しました。しかし、亡命という雰囲気にそぐわない、イストリアの明るい声がそれに答えます。「大丈夫ですよ、大旦那様! わたくしめごとき小間使いにまで左様なお気遣い、もったいのうございます!」 忠臣の心配を余所に、当のイストリア本人は決死の逃避行にも関わらず落ち着いており、普段の自分とは違う非日常感を楽しんでいるようでもあります。 常日頃から心を傾けてきた市民の生活。例え服装と口調だけとはいえ、その一端に触れることが出来るのは彼女にはとても新鮮な事であり、庶民に近い目線で世間を見ることが出来る貴重な機会なのでした。 市民の生活に心を砕いてきた彼女にとって、それはとても心躍る出来事であり、このような状況であるにも関わらず生来の旺盛な好奇心を隠すことが出来ない様子。しかし、それは決して悪い事ばかりではなく、このような事態へ陥った時に漂いがちな悲壮感を打ち消すことが出来ました。 結果として皇帝一行は旅の途中で身分を|訝《いぶか》しがられることなく、堂々と街道を進むことが出来たのです。「どうですか? 大旦那様。わたくしもやる時はやるでしょう?」 機嫌よくヴィルヘルム
民衆の耳にはっきりと届いた、皇帝自らが発した『拒否権』という言葉。 それは人々の耳には届いても、心にまでは届いていませんでした。 市民たちと議員、全ての瞳が皇帝イストリアの姿を捉えます。 その中でローゼンベルクとヴィルヘルムだけが静かに目を閉じていました。 静寂が市民集会を支配したのも束の間、市民たちのある一角から大きな声が上がります。「我々はまだあの屈辱を忘れてはいない!」「ハワード王国は我々の敵だ!」「あの雪辱を果たすには、もう一度戦って勝つしかない! 傷つけられた帝国の威信を取り戻すのはそれしかないのだ!」「施された平和に安住して何が覇者だ! 帝国臣民の誇りを取り戻せ!」 それはハワード王国との一度目の戦闘で捕虜となり、二度目で盾となり、三度目で最後まで奮闘した二万の兵士の生き残りたちでした。総勢で一万足らずの人数でしかない、涙交じりの彼らの声は理屈を超えて人々の心に染み入ります。それはまるで紙に落としたインクのように、着実に市民集会全体の空気に浸透していきました。 そこで法務官マーカスが追撃をかけます。「皇帝陛下! あなたは民意を確認することなく独断専行で屈辱的な講和条約を結んでおきながら、この期に及んでなおかつ自身の未熟さを露呈した軍事に対し、絶対指揮権という権力に固執するおつもりか!」 ここでイストリアが発動した『拒否権』が完全に失策だったことが決定的になってしまいます。 実際にはハワード王国が軍備を増強したわけでもなく、敵対行動を取ったわけでもありません。しかし、人々の間に根付いた敗北という『屈辱』と敵から与えられた平和という『眠っていた不満』が、マーカスとウェインの演説によって『心配』から『疑惑』へと昇華し、イストリアがそれに反対したことによって明確に『皇帝への不信』へと変化してしまったのです。「市民諸君! 皇帝陛下は帝国臣民の怒りや悲しみ、そして誇りよりも施された一時的な安寧を選択した! このような軟弱さを持つ幼き皇帝にこれ以上帝国の命脈たる軍事権を預けていてよいものか! 今こそ先の英雄たるローゼンベルク議員を中心に思想を一致させ、外患を排除して真







